ニッポン・天気晴朗なれど波高し

2018GWに「アゴラ」に投稿・掲載されました。せっかくだから時事ネタ系ブログでも始めようかと。立ち位置は右というよりは左です。

三浦瑠璃「9条を信仰している人たちが戦争を起こす」の違和感&「9条原理主義者」その出生の秘密

前回の続き。「もの言えぬ時代(朝日新聞社刊)」の三浦瑠璃氏「9条を信仰している人たちが戦争を起こす」についての感想など。

 

筆者は「9条改憲も将来的にはアリだろう」という立場です。どう考えても自衛隊は戦力だと思いますし。ただしリビジョニスト総理下の改憲には反対です。大体、2項残して3項追加なんて、あまりにテキトーすぎるでしょう。

 

ただ現在の自衛隊は、やはりムリヤリ感があまりにも強いと思っています。たとえば「攻撃機」と呼ばれる機種を「支援戦闘機」と言い換える。まあ千歩譲って、これは派遣法で禁止されている面接を「社内見学会」と言い換えるようなものなので良しとしましょうか。ニッポンって、こんなのだらけですから。ホントは良くないと思いますが、絶対に。

 

ただ「戦闘エリア状態」に行って<戦闘>とは書けないとなると、やはり根本的にマズイと思います。本来は「そういう状態でも支援に行くべきか」を議論すべきでしょう。そういう解釈に解釈を重ねて現実と乖離した現状の根っこに9条があるという認識は持っています。

 

そのうえで、三浦氏の「むしろ、9条を信仰する人が戦争を起こす側にまわる」の主旨をみてみると(もの言えぬ時代/135P)・・・まあ、これが結構分かりづらくて。「原爆を落とされたこともあって、9条があることで特別に選ばれたという選民思想に傾きがち」「客観的でない選民思想は自分たちの戦争を正しいと考えがちで、いざ追い込まれると戦いに駆り立てられる」等々が書かれています。

 

ちょっと分かりづらいのですが、要は「現実的な安全保障と国家主義的な社会政策を十把ひとからげに批判する(もの言えぬ時代/125P)」日本の左翼陣営の後進性/非論理性がむしろ危険だと言いたいのだと勝手に筆者は解釈しています。「9条を<信仰する>人」というフレーズから見ても、そうだと思います。

 

ただ、これは、これで理解できるのですが、やはりちょっと違和感がありまして。「9条を<信仰する>人」を批判すればすむ問題なのか。そもそも、「9条を<信仰する>人」たちは何故、生まれたのか、というコトを考えてしまうのです。

 

「9条を<信仰する>人」つまり9条原理主義者は、当然、先の大戦が悲惨だったという感情をベースにしつつ、結局、日本国が「戦争責任」を曖昧模糊としたことから、大量に生育されたのだと思います。

 

「戦争責任」を「一億総懺悔」的にグレーゾーンにしてしまうから、<信仰>に走るのではないでしょうか。出発点としての論理的な戦争責任の総括がないから、未来や現実認識も非論理的かつ非現実的になってしまう。ペストが伝染病と認識できなければ「悪魔の仕業」でもなんでもありでしょう。そうだとすれば、解決策が<信仰>っていうのも、ある種、合理性はある気もしますし。


「責任」も「原因」も不明とするならば、「戦争の放棄」が支持されるのも自然な流れなのではないでしょうか。

 

その結果、70年後に行き着いたところは、たとえば「外務省の歴史問題ページ」(FAQ)などに掲載されている事柄が「自虐史観」とよばれる倒錯した世界だった訳です。こういう基本的なことも、国内外でダブルスタンダードにして誤魔化してしまう。そういう姿勢からは、たとえばイラク戦争において「アメリカに正義はあるのか」という世界中が感じたギモンなど出てくる訳ないでしょう、という気がしてしまうのですが。

 

批判されるべきは誰なのか。「9条原理主義者」というよりは、むしろ、このような非論理的で無自覚なニッポンをつくりだした国内主流派/右サイドという気がどうしてもするのです。これが前述の違和感ということなのですが。

 

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三浦氏ブログ内の「9条とリベラリズムの死 2017/10/12」の方が分かりやすいかもしれません。そちらを紹介・引用&感想少々。

 

>問題は、憲法9条の存在によって日本人が平和や安全保障について考えなくなってしまったこと。9条は、それさえ言っていれば良い呪文のようなものになってしまいました。この欺瞞は、自衛隊を発足させたあたりから先鋭化したと思っています。

 

・・・これはおっしゃる通りだと思います。

 

>当初、占領軍による日本の武装解除という意味合いが強かった9条は、しだいに「平和国家」としての日本のアイデンティティーの核となっていきます。私は、それは限りなくナショナリズムに近い感覚であったと思っています。日本のナショナリズムは敗戦によって根底から揺さぶられました。日本は(戦争という)悪いことをして、しかも負けた。街では、占領軍が偉そうに振る舞っている。自分の国を誇らしく思いたいという感情は行き場を無くしていました。

そんな精神状況を救ったのが、「日本こそが世界に誇る9条を戴いた『平和国家』なのだ」というストーリーだったわけです。9条は、戦後日本社会が自らのために作り上げたフィクションです。それは、選民思想に基づいた、都合の良い論理のウルトラCなのですが、この欺瞞が70年以上にわたって、少なくない国民から支持されてきたのです。

 

・・・「>9条は、戦後日本社会が自らのために作り上げたフィクションです。」これも分かります。ただ「ナショナリズムとしての9条」というのは、ちょっと分かりません。もし仮にそうだとしても、その「>都合の良い論理のウルトラC」を成立させている背景こそが問題の気がするんですけどねぇ。

 

あと、途中出てくる「>選民思想」も、ちょっと分からんなぁぁ。。選民思想とかって、たかだか70年位前に与えられた表層的な平和憲法なんかから形成されるものなのでしょうか。そういうものって、本来、もっと民族のDNAというか、基層領域からカタチづくられる気がするのですが。まあ、これは大した問題じゃないので、どうでもいいですけど。