ニッポン・天気晴朗なれど波高し

2018GWに「アゴラ」に投稿・掲載されました。せっかくだから時事ネタ系ブログでも始めようかと。立ち位置は右というよりは左です。

「無断録音は許されるか」報道倫理原理主義者の罪

前回」の続き。今回は財務次官セクハラ問題でのテレ朝記者の無断録音について絞って書きます。結構、これが非難を浴びているようなので。マスコミ系出身の識者のなかでも、言語道断とする人も多いようです。筆者はこの無断録音を是とする立場です。

 

素朴な疑問として。通常、セクハラ被害証拠の録音は相手に断らず録音するものです。「営業中」「接客中」等のセクハラ録音が許されて、「取材中」のセクハラ録音が許されないのでしょうか。取材とか報道って、そんなに特殊で神聖なものなのでしょうか。これがよく分からない。

 

こういう報道=聖職的な感覚をもっている人を仮に「報道倫理原理主義者」と呼ぶことにします(もちろん取材上の無断録音が報道倫理上、許されないのは理解していますが)

 

前回、「職業倫理や規範を人権よりも上位概念として神聖視するのは、ブラック企業の構造に酷似している」と書いたのは、主にこのような報道倫理原理主義者をイメージしています。

 

なんと言いますか、報道倫理原理主義って、たとえば相撲業界とかのような古くからある業界の因習というか、業界内の思い込みといいますか。「神聖なる取材中にいかなる理由があっても、無断録音するなど言語道断」って、やはり、シンプルに笑っちゃう訳です。

 

これって「神聖なる土俵上にはいかなる理由があっても、女性があがるなど言語道断」と言っているのと、論理構造上で大差ない気もしまして。

 

そして、このような、ある種、特殊というか特権的な考え方が記者クラブ制度であったり、セクハラを許してしまうメディアの前時代的な環境形成と不可分な気が、どうしてもしてしまうのです。

 

そんな所感をもっている訳ですが、以下・この問題に関するテレ朝の見解まとめと、感想など。謎の深夜会見とその後の社長定例会見をまとめると、テレ朝の見解は下記のようです。

 

1■「記者の無断録音は理解できる」(自分の身を守るためだから)

2■「公益目的から雑誌への情報提供は理解できる」

3■遺憾なのは「渡したもののなかで取材内容に伴うものがあったから」

 

しかし、このテレ朝見解って世間に伝わってるのでしょうかねぇ。あの、深夜記者会見はあまりにも説明が稚拙。というか、ちゃんとまとめられず会見したんだろうな、と。あと、朝日新聞の湊記者の質問能力も??でした。 


ほとんどの人がテレ朝は「記者が無断録音して他社に持ち込んだこと」を不適切としてるように思っているんじゃないでしょうか。


まあ、それはさておき、個人的には、上記のテレ朝の認識は概ね妥当だと思います。1を前提とするならば2は必然です。以下・感想など。テレ朝見解より、やや記者擁護寄りです。

 

ひとつめ。そもそも「取材中のセクハラ」が「セクハラ」と「取材」に完全に分離できるのかが疑問。純粋に「セクハラ」部だけ抽出したら、どこぞのお店で「言葉あそび」中なのかどうか判別できません。さらに言えば部分抽出すればエビデンスデータとしての証拠能力は低くなるはずですし。

 

ふたつめ。「とはいえ新潮には取材内容もかなり載っている」という声もあります。ただこれは突き詰めれば「ソレって新潮側の問題じゃないの」という気もしまして。つまり新潮サイドがネタ元(テレ朝記者)の利益保護(取材データの流出疑義)をできなかったという構造の気がします。まあ、この点はテレ朝としては言いづらいでしょうが。

 

ラスト。これはちょっと微妙ですが、「量」と「質」みたいな話です。録音データ内ではたしかに分量としては取材内容の方が多いのかもしれません。しかし、ハッキリ言って、その内容が政界を激震させるというレベルだとは思えないのです。むしろ分量の少ないテレ朝記者の「セクハラ被害証拠」こそがインパクトがある訳です。そういう意味からも、この録音データの基本的な性格は「取材データ」というよりは「セクハラのエビデンスデータ」の比重が高いと言えるのではないでしょうか。

 

最後に。テレ朝見解は概ね正しいとは思っているのですが、ただ微妙にテレ朝の姿勢のなかにも、報道倫理原理主義の匂いは感じてしまうのです。まあ、これは戦中の「一県一紙体制」から綿々と続く伝統あるプライドの高い業界ですから。しょうがないのかなぁぁ。